スマホのカメラで写真を撮ることが多くなった。撮った写真はスマホに蓄積されていく。便利な時代になったものだ。撮影解像度は低めに設定してある。パソコンのモニタで見れれば十分だ。プリントの質感を求めているわけではない。気軽に手軽に撮れるのが何より使いやすい。
私が撮る写真はもっぱら記録写真が多い。写真日記、と言ってもいいかもしれない。誰かに見てもらうために写しているわけではない。他から見たら、なんでこんな写真を撮っているんだろう?と不思議に思われるかもしれない。それは単に、私自身が立ち会ったその時の光景を淡々と記録するように写している。日記を書くように、私の日常を写真で切り撮っている。それにはスマホのカメラ機能が適している。
撮影は、私の工房が主な舞台となっている。工房には2つのエリアがある。ひとつは「二坪の眼」、ひとつは「二坪の手」と名付けた。「二坪の眼」は事務所として構成し、「二坪の手」は日曜大工的な作業場として構成した。いずれのスペースも床面積が「二坪」の空間となる。「二坪の眼」と「二坪の手」は隣接していて、合わせて四坪の空間が舞台としての工房となる。この工房を総称して、私は「二坪」と呼んでいる。
この「二坪」。実は、のこぎり屋根工場の一角に賃貸で間借りしている。築年数が90年以上とも聞く工場は、木造のむき出し構造と土壁で建っている。天井もなく、屋根までの高さは4メートルを越える。8つの三角屋根が並ぶ広さは、およそ200坪。見渡す限り間仕切りは無い。その外観や内部構造はあまりに特徴的だ。
かつては毛織物工場として活躍していた。操業を停止しておよそ25年になるらしい。そんな、からっぽの工場を30代の5代目が引き継いだ。取り壊しを検討する家族会議も行われたそうだが、5代目は、そのままの状態で再活用する道を選んだ。工場の半分を展示会場として期間利用者を募り、半分を坪単位で賃貸工房とすることにした。毛織物の生産からアート作品の創作活動支援へと切り替えた。
特筆すべきは、のこぎり屋根工場の建築構造にある。のこぎりの刃のような三角屋根は、北側から太陽の光を採り入れる構造に建っている。この屋根の北窓からの採光が工場内を満たす時、そこに影は作られない。それは、毛織物の製造現場において欠かせない条件だった。反物が仕上がる色具合を点検するには、自然光で均一な明かりの確保が求められたからだ。
この照明環境は、アート作品の鑑賞にも威力を発揮する。人工的なスポットライトでコントラストを作ることなく、自然光の中で作品そのもののコントラストを味わうことができる。それは写真撮影においても同様で、労せずしてベストなライティングが整っている。そんな工場内の明かりが私は好きだ。私はそのバックグラウンドでの写真撮影を日常的に楽しんでいる。それは贅沢な遊びかもしれない。
私は芸術家でもなければ、アーチストでもない。無論、写真家でもない。「二坪」という工房スペースを間借りしているが、発表すべく作品の制作に臨んでいるわけではない。時折、「どうしてここを借りているのですか?」と聞かれることもある。そんな時は、「おじさんの遊び場です」と答えるようにしている。「隠れ家みたいですね」と返ってきたりもする。「二坪」の見てくれは、のこぎり屋根工場の中にあって、風変わりな印象を醸し出しているのかもしれない。
「二坪」はオープンスペースに開いている。いつでも誰でも立ち寄ることができる。ところが、私は常駐していない。私も気の向いた時に立ち寄ることにしている。使用者不在のまま「二坪」が開いていることも少なくない。こうしてみると、「二坪」は私の舞台でありながら、私だけの舞台ではない、という感覚も生まれてくる。もっとも、のこぎり屋根工場の家主が工場を管理しているので、テナントとしての安心感はある。
「二坪の眼」には松本民芸家具の丸テーブルと丸椅子が置いてある。古い友人が作ってくれたものだ。他に、3本の古い飾り棚。おそらく昭和初期の高級品だろう。これらは工場の家主から「使ってください」と借りている。来客がある時はこの席で談笑する。
「二坪の手」では日常使いする道具を作っている。なにを作るかは気の向くままに任せている。工作用の道具が日々増えていっている。きっかけは、知り合いの田んぼから稲藁を調達して、注連縄づくりに取り組んだことに端を発している。せっかく藁があるのだから、と藁細工に興味を持ったり、藁納豆づくりにも挑戦してみた。稲藁の保管には稲架掛けしておくのが良いと聞き、垂木を支柱に麻縄を張って稲藁を干すことにした。「二坪の手」には、ほんのり藁の香りがする。
工作用の作業台も垂木と胴縁で自作した。木工の木材は建築資材が安価で扱いやすい。手の込んだホゾ組はできないので、ほとんどが切りっ放しの釘打ちで済ますことになる。それでも隙間棚など、規格外の収まりを整える楽しみは格別だ。
藁と木の組み合わせは面白い。いずれも古くから生活の中に馴染みのある材料だ。扱っているだけで心が安まるものがある。遠いむかし、人々は限られた身近な材料で必要なものを工夫して作り上げてきた。その思いは縄文時代にまで及ぶこともある。そんな時間が私の贅沢なのだろう。のこぎり屋根の下で。
「二坪」のレイアウトは基本的に変わらない。それでも、「二坪」に立ち寄った時には必ず何枚かの写真を撮ることにしている。すると、同じような構図の写真が増えていく。きっと、その眺めが自分にとってのお気に入りの絵なんだろうな、と気付いてくる。
撮影した写真はその場でスマホの画面に確認できる。それでも、閲覧環境を自宅のパソコンに移して見ると、写りの良し悪しがはっきりする。時として、こんな写真が撮れていたのか、と驚かされることもある。
「二坪」を撮影していく中で、時折、「二坪」のレイアウトを変えてみたくなる時がある。これは写真を見て気付くことが多い。写真映りの問題ではなく、実際の工房の使い勝手の改善に気付くのだ。棚やテーブルの配置を変えると居住スペースが広がるかな、とか。この空きスペースを活用する手立てはないものか、とか。それは「二坪」の中に身を置いている時には見えてこない。写真だからこそ気付かされる。そんな不思議な効果が写真にはあるのかもしれない。人は写真を見る時にどんな意識が働くのだろう?少なくとも、私の中では撮影時と閲覧時では異なった意識が働いているような気がする。写真を撮る、ということは自分を撮る、ということかもしれない。
写真に気持ちが入る。気持ちが写る。そんな感触を覚えることがある。それは被写体の光景に魅了された時だ。自分で撮った写真に自分で惹かれる。そんな一枚は、確実に他の写真とは異なっている。そにには、撮影時の自分の心境が写っている、と感じるのだ。単なる思い出ではなく、その写真を撮ろうとした時の自分の気持ちが定着されている。どんな言葉よりもリアルに饒舌に写し込まれている。その饒舌さは私にしか聞こえてこないものかもしれない。ただ、そんな写真は物語性を持っているような気がする。それは、見る人にとっての物語を喚起するものだろう。
たとえば、六角形の木枠を作った時だった。
工場の片隅に、8cm角で4メートルほどの木柱と思しき古材があった。ここから60度の角度で両端を切り揃えた同じ長さの6本の木片を、正六角形の木枠としてつなぎ合わせてみた。角度の切り口を合わせてみると、見た目は意外と綺麗に収まった。床に並べて、正六角形に仮組みしてみた。その表情が凛々しく美しい。私は魅了された。そんな瞬間が訪れる時、私の写真撮影は慎重になる。
古材という木の風合いも手伝っているかもしれない。正六角形という形の美しさが神秘性を帯びているのかもしれない。あるいは、のこぎり屋根の北光線のサポートがあってこその見栄えなのかもしれない。あらゆる条件が重なった出来事。我を忘れて見飽きることのない時間に浸る。そして、魂身の一枚。写された写真はほんの一瞬の表情だろう。それでも私には、それが出来上がるまでのすべての工程をそこから読み取ることができる。ノコギリを引いた手の感触までもが甦ってくる。
写真には撮影者の気持ちが写し込まれることがあるんだな、と思いながら私は写真日記を楽しんでいる。