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[530] ■ノコギリヤネのある風景
     aoki@dwks 2019/11/10(日) 23:41:46
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[1366] 「8.5 真夏の夜の“キョウエン”」その15(番外編)
     aoki@dwks 2023/08/24(木) 15:29:44
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[1367] Re(1):「8.5 真夏の夜の“キョウエン”」その15(番外編)
     aoki@dwks 2023/08/24(木) 15:30:45
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[1369] ノコギリヤネから見えてくる「まち」(その15)
     aoki@dwks 2023/11/05(日) 11:12:47
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by  aoki@dwks    2023/08/24(木) 15:29:44

ノコギリアンから 「断章“ノコギリヤネのある風景”その15(番外編)」 ■8.5 真夏の夜の“キョウエン” が届きました。 下記ページにて公開しました。 ・20230823_noko-fukei-15_bangai.pdf ・https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/20230823_noko-fukei-15_bangai.pdfhttps://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/nokoyane.htm ---- 1.“からっぽ”の中の“からっぽ” 2.「それぞれの世界(環世界)」の重なりの中で 3.大きな“からっぽ”から生まれる未来 4.夢千夜「舟に乗る」 5.○エピローグ:始まりの三角形(縁起的世界の始まり) ---- ●ノコギリアンが視た「のこぎりニ」の“からっぽ”の存在意義 ・アーティストは、見えないものを見せてくれる。 ・ここで制作するアーティストは、まず、地域との関わり方を問われる。ここで創作することの意味を問われる。 ・己を表現するというよりも、自らを“からっぽ”にすることで。そうしてポリフォニー(polyphony:多声音楽)な空間を創出した。それは、単なる融合ではなくて、一緒に創造する行為を通して得られるものだろう。 ・それは、単なる調和、融合ではなく、自立した主体が輻輳するポリフォニーである。mhproject の”からっぽ“は、地域が真に持続する社会を築いていく上で、アートの可能性を見せてくれる。アーティストの独自のリサーチが、ここだけの地域で成立するかもしれない未来の可能性を広げてくれる。 https://www.instagram.com/mhproject_nokogirini/ https://mhprojectnyc.com/ https://www.keikomiyamori.com/ https://evaaine.com/ ---- mh-SUMMER PROJECT_2023「宮森敬子+中村愛音」 https://36way.net/page1/017/202308.htm 添付画像【1366_nokof-15-01.jpg : 126.1KB】添付画像【1366_2023-08-24.JPG : 178.0KB】

[添付]:1366_2023-08-24.JPG(178.0KB)
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by  aoki@dwks    2023/08/24(木) 15:30:45

---- 添付画像【1367_20230823-03.JPG : 250.0KB】添付画像【1367_20230823-02.JPG : 159.2KB】添付画像【1367_20230823-01.JPG : 159.8KB】

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by  aoki@dwks    2023/11/05(日) 11:12:47

ノコギリアンから 「断章“ノコギリヤネのある風景”その15」 ノコギリヤネから見えてくる「まち」 が届きました。 20231103_noko-fukei-15.pdf 下記ページにて公開しました。 ・https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/20231103_noko-fukei-15.pdfhttps://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/nokoyane.htm ---- 1.「まち」が見えない? 2.「みち」がなくなった? 3.「うち」が閉じられた? 4.私が開いて、ノコが起つ:ミチノコ、ニワノコ、オクノコ 5.○エピローグ:「建築家なしの建築」 ---- ・「まち」は、多くの人が住み、働き、遊ぶところだった。多様な人との交流、複雑な人間関係もあれば、自由もあった。そこには、いいことも悪いこともあっただろう。そんなものが失われてしまい、のっぺりとした均質的なものに成り果てているのが現状ではないか。 ・「みち」が「まち」を作ってきた。人が歩いていなければ「みち」ではない。それは、通行のための道路に過ぎない。かつて、「みち」は開放的で自由な空間だった。そこで、色々なことを学ぶ。そして、子どもたちにとって、「みち」は遊びの場であった。まさに「未知」の空間だった。 ・「うち」は、私的空間と公共空間に区分され、原っぱのような所有や利用が曖昧な空間がなくなっていった。また、農村や寺社などの共同体の所有する土地が、「公(おおやけ)」が支配する公共空間として管理が厳重になっていく。そして、「みち」は自動車通行の公共性が優先され、歩行者は排除されていく。閉じられた「うち」は、「みち」との交流を失い、「まち」から分断されていった。 ・お前たちは翼がないから、不自由だな。本来、私というのは、もっと自由なはずだ。公というのは、私の集まりじゃないのか? そうだとすれば、公という空間には、もっと自由が必要じゃないのか。オマエたちは、「公(おおやけ)」に飼い慣らされているように見える。 添付画像【1369_nokof-15.jpg : 121.6KB】添付画像【1369_2023-11-05_10-53-55.JPG : 148.1KB】添付画像【1369_2023-11-05_10-52-38.JPG : 179.4KB】

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