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by aoki@dwks
2023/11/05(日) 11:12:47
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ノコギリアンから
「断章“ノコギリヤネのある風景”その15」
ノコギリヤネから見えてくる「まち」
が届きました。
20231103_noko-fukei-15.pdf
下記ページにて公開しました。
・https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/20231103_noko-fukei-15.pdf
・https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/nokoyane.htm
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1.「まち」が見えない?
2.「みち」がなくなった?
3.「うち」が閉じられた?
4.私が開いて、ノコが起つ:ミチノコ、ニワノコ、オクノコ
5.○エピローグ:「建築家なしの建築」
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・「まち」は、多くの人が住み、働き、遊ぶところだった。多様な人との交流、複雑な人間関係もあれば、自由もあった。そこには、いいことも悪いこともあっただろう。そんなものが失われてしまい、のっぺりとした均質的なものに成り果てているのが現状ではないか。
・「みち」が「まち」を作ってきた。人が歩いていなければ「みち」ではない。それは、通行のための道路に過ぎない。かつて、「みち」は開放的で自由な空間だった。そこで、色々なことを学ぶ。そして、子どもたちにとって、「みち」は遊びの場であった。まさに「未知」の空間だった。
・「うち」は、私的空間と公共空間に区分され、原っぱのような所有や利用が曖昧な空間がなくなっていった。また、農村や寺社などの共同体の所有する土地が、「公(おおやけ)」が支配する公共空間として管理が厳重になっていく。そして、「みち」は自動車通行の公共性が優先され、歩行者は排除されていく。閉じられた「うち」は、「みち」との交流を失い、「まち」から分断されていった。
・お前たちは翼がないから、不自由だな。本来、私というのは、もっと自由なはずだ。公というのは、私の集まりじゃないのか? そうだとすれば、公という空間には、もっと自由が必要じゃないのか。オマエたちは、「公(おおやけ)」に飼い慣らされているように見える。
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