バトンプロジェクト:二坪の眼 for PDA

2 / 143 ページ  ←次へ | 前へ→

by  aoki@dwks    2023/12/31(日) 02:49:56

『感情の粒子』:本日の鑑賞者(20231230) ありがとうございました。 https://36way.net/nag/nag2022_001.htm https://36way.net/nag/nag2022_002.htm ---- entanglement 『感情の粒子』 https://bit.ly/3T0sRnY 添付画像【1390_DSC_3315.JPG : 1.2MB】

861 hits

引用なし
パスワード

by  aoki@dwks    2023/12/16(土) 12:09:52

Re:https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1370;id=ad138 ここまでの考察を含めて原点に立ち戻ってみる。 ・“ノコギリヤネのある風景”の発見(2019.12.30) ( 断章“ノコギリヤネのある風景 ”その1 ) https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/1230_noko-fukei-1.pdf 表紙には「閉ざされたノコギリヤネの扉」が掲げられている。 さしずめ、ノコやんはこの「閉ざされた扉」に立ち向かった、ということだろうか。 ここでまず、ノコやんは自筆の(「“タマノイノコ”に見る風景の予感」2019.10.31)を紹介している。 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/1031_tamanoinoko.pdf この手記は『断章“ノコギリヤネのある風景 ”』の前章と言ってもいいだろう。そこには、ノコやんの「都市計画家」「建築家」としての「顔」を覗かしている。 > ノコギリヤネはワタシの原風景である。現在は神奈川に住んでいるが、一宮市に生まれ、二十代半ばまで暮らした。そして、都市計画・まちづくりを生業とし、全国各地を巡る中で、この尾張の“ノコギリヤネのある風景”が、どこにもないユニークなものであることを実感した。ノコギリヤネの残る地域は幾つかあるが、この地域ほど広範囲にわたりかつ集積のあるところはない。 > 「ガチャ万」ではなく、1970年代後半のテレビアニメに「ガッチャマン」という正義のヒーローがいた。高度経済成長による歪みが明らかになり、都市計画の世界では、開発による発展とは異なるビジョンが提示された。例えば、三全総(第三次全国総合開発計画)がそうだ。その後の展開次第で、いまとは違う日本になっていたかもしれない。当時に戻っていまの時代を考えてみることは、決して愚かな行為ではないと思う。それは現在を否定して、昔に戻るということではない。どうしてこういう社会になったかを見定めることが大切であり、そこに未来に対する気づきが生まれるはずである。歴史に学ぶとはそういうことだろう。ノコギリヤネはその時代の生き証人である。彼らと対話することから見えてくるものがあるはずだ。いま、世界正義のために戦うヒーローを求めるのは時代錯誤だ。日々の暮らしの中で、これからの生き方を提示してくれる新しいヒーローが出てくるのではないか。それは、ノコギリヤネを「ガチャ万」の呪縛から解放することとリンクしているような気がしている。 ここで「ノコギリヤネ」(彼ら)と対話する、という指摘がなされている。それは文字通り、ノコやん自身の「ノコギリヤネ」との対話として『断章“ノコギリヤネのある風景 ”』の展開へと発展していく。 前章として、布石のように置いたいくつかのキーワードを列挙してみたい。 ・ノコギリヤネの壁面が立っている=タブララサ ※タブララサ:何も書かれていない書板の意。ロックが、デカルトの生得観念に反対して、人間は生まれたとき全白紙の状態であり、経験からの印象により知識が成立すると主張した際に用いたことば。 ・“フォリー”としての“織壁” ※“フォリー”(folly)と呼ばれる建築がある。「西洋の庭園などにみられる装飾用の建物で、居住や雨風をしのぐといった用途がまったくないもの」(Wikipedia)である。 ・土地や家族に対する思いが織り込まれている。=“プライド・オブ・プレイス(pride of place)”である。 ・「のこぎり三」 ・「タウンキュレーション」 ・セレンディピティ=「思いもよらなかった偶然がもたらす幸運」 この前章の中には、「タウンキュレーション」による「のこぎり三」を描く「アート思考」が芽生えている。 そして約二ヶ月を経て、『断章“ノコギリヤネのある風景 ”』の連載がはじまる。 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/1230_noko-fukei-1.pdf “ノコギリヤネのある風景”の発見(2019.12.30) > ワタシは、この地域の「のこぎり屋根」の工場建築(及び旧工場を含むすべて)を「親しみ+ポテンシャル」を込めて“ノコギリヤネ”と呼んでいる。 ノコやんは、カタカナ表記がお好みのようだ。 > ノコギリヤネの新たな利活用という部分にとらわれず、「風景」という俯瞰的な視点から、この地域のノコギリヤネをめぐる状況を探っていこうと思う。 「風景を俯瞰する」(地図)という視点が軸に置かれたようだ。これが、マスミダカラスの誕生につながっていくのかな。 > 1. 2006 年6月 17 日:ワタシの“ノコギリヤネのある風景”の発見 > それは、13 年ほど前に遡る。都市計画・まちづくりのコンサルティング業務に携わってほぼ四半世紀が過ぎていた。その間、国や地方の重要プロジェクト等に携わる機会も幾つか経験した。しかしながら、誤解を恐れずに言えば、計画づくりの多くは結果ありきのもので、その理屈を構築する作業に過ぎなかった。上滑りの言葉が並ぶ「計画のための計画づくり」。しかし、ワタシもそれに加担してきた訳だ。それでも、可能な限り、都市計画プランナー/都市計画家としての良心を注ぎ込む努力はする。しかし、流れはもう決まっているのだ。正直に言えば、仕事としての都市計画・まちづくりに限界を感じ、嫌気がさしていた。 手記を綴る発動力がここにあるのかもしれない。それが「自身との“対話”」 > ある土曜日の朝、全国紙の文化欄に、見覚えのある建造物の写真を発見した。いわゆる「のこぎり屋根」の工場である。ああ、ワタシのふるさとだ。写真から、機を折る音が聞こえてくる。ガッチャン、ガッチャン。ワタシは、いま、小学生になって写真の中にいる。初めて「のこぎり屋根」を風景として意識したような気がした。風景とは、「「景」とはひかりの意として、@目の前にひろがる眺め。景色。Aその場のようす。情景。」(大辞林第三版)とある。それは単に見えるものではなく、心にあるものが投影されて、心にある感じを起こすものだろう。それは、懐かしさだけではなかった。ワタシは、写真の「のこぎり屋根」に何かしらの可能性、期待を感じていたのだろう。ワタシは、新聞記事の見出しのごとく、「恋に落ちてしまった」のかもしれない、ノコギリヤネに。 「風景」とは、見えるものだけでなく、心象も含めたもの。と解している。それが「自身との“対話”」の中で描かれていく。 > ワタシのノコギリヤネドラマはここから始まった。(2006.6.17) この時すでに、ノコやんの「行き先」が変わったのかもしれない。 > 2. 2012 年2月4日:「産業遺産」としての“ノコギリヤネのある風景” > “ノコギリヤネのある風景”の発見の翌年、偶然にも、一宮市の中心市街地活性化計画の見直しに関わることになり、地元でまちづくりに関わる方々とも知遇を得て、故郷に通うようになった。ノコギリヤネについて、少しずつ分かってきた。 > 2012 年には、起にある一宮市尾西歴史民俗資料館において「のこぎり屋根と毛織物」と題する特別展が開催されている。少なからぬ市民が、この特別展を通して、身近な存在のノコギリヤネをこの地域の資源として注目するきっかけとなったのではないだろうか。市民レベルで、「産業遺産」としての“ノコギリヤネのある風景”が発見された。 > 3.2016 年 11 月3日:“ノコギリヤネのある風景”のメタモルフォーゼ > 全国紙の文化欄に、原風景としての“ノコギリヤネのある風景”を発見してから、十年が経過していた。 > 「恋に落ちた」に反して、ワタシは、熱心なノコギリヤネ・ウォッチャーではなかった。 > ワタシの関心は、この“ノコギリヤネのある風景”の背後にある地域社会そのものにあった。だから、先達の力(伊藤喜栄元慶応大学教授)を借りて、起、一宮市を超えた尾張/尾州の広がりの中で、海あるいは河川氾濫原であった古代まで俯瞰した「地歴学講座」を立ち上げ、自分なりにこの地域の成り立ちから学ぶことを始めた。 ・ノコギリアン(今枝忠彦)の活動履歴 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/prof.htm > そして、「のこぎり二」に遭遇した。それは、産業遺産として展開されつつあった“ノコギリヤネのある風景”を大きく変えるものであった。ノコギリヤネの根源にある「家族」を問うものであった。工場からギャラリー・工房等への単なるリノベーションではない。生物学で、変態/メタモルフォーゼとは、「動物の正常な生育過程において形態を変えること」(wikipedia)を表す。これになぞらえれば、「のこぎり屋根工場」から「のこぎり二」という“生育形態”へのメタモルフォーゼである。そして、「のこ座」というそこに集う人たちによる開かれた共同作業の場によって成長した。敷地内に建てられ、家族に閉じられた「のこぎり屋根工場」が、地域に開き、自らも成長していく“ノコギリヤネのある風景”へのメタモルフォーゼの姿を提示したのである。ワタシは、閉じた「のこぎり屋根工場」が開かれ、主体性を持って動き出すさまに、「ノコが起つ」という言葉を付してエールを贈りたい。ノコギリヤネのメタモルフォーゼに。 > ワタシが発見した“ノコギリヤネのある風景”は消えてしまった。これから、多くの“ノコギリヤネのある風景”がなくなってゆくことだろう。 > “ノコギリヤネのある風景”は、未来永劫に残るものではない。また、そうすべきものではないかもしれない。ワタシは、ノコギリヤネを、その構造、造作等から仮設的なものとして捉えている。これは、ノコギリヤネの価値を貶めるものではない。むしろ、メタモルフォーゼという変身、さらなる成長が期待できるということだ。そして、仮設的であることは、移築という展開も視野に入ってくる。仄聞するに、可能性は高いという。 > “ノコギリヤネのある風景”は、極めてコンテンポラリーかつ創造的なテーマを提供してくれる。暫くの間、“ノコギリヤネのある風景”と付き合ってみようと思う。“恋”ならぬ“ノコギリヤネ”に堕ちた身としては。 ノコやんの「行き先」 ・2006.6.17:全国紙の文化欄に見覚えのある建造物写真「のこぎり屋根」の工場が扉を開く ・2007:一宮市の中心市街地活性化計画の見直しに関わることになり、地元でまちづくりに関わる方々とも知遇を得て、故郷に通うようになった。 ・2012:起にある一宮市尾西歴史民俗資料館において「のこぎり屋根と毛織物」と題する特別展が開催される。少なからぬ市民が、この特別展を通して、身近な存在のノコギリヤネをこの地域の資源として注目するきっかけとなったのではないだろうか。市民レベルで、「産業遺産」としての“ノコギリヤネのある風景”が発見された。 ・2016:ワタシの関心は、この“ノコギリヤネのある風景”の背後にある地域社会そのものにあった。だから、先達の力(伊藤喜栄元慶応大学教授)を借りて、起、一宮市を超えた尾張/尾州の広がりの中で、海あるいは河川氾濫原であった古代まで俯瞰した「地歴学講座」を立ち上げ、自分なりにこの地域の成り立ちから学ぶことを始めた。 ・2016.11.03:「のこぎりニ」・「のこ座」への参加 ・2017.11.03:第十四回「のこ座」『ノコギリヤネ・ウツホモノガタリ』を主催 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/nokoza14_report.pdf ・2019.12.30:『断章“ノコギリヤネのある風景 ”』執筆開始 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/nokoyane.htm ・2021.04.30:ノコギリアン・コウバを開設 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/kouba.htm ・2021.05:ノコギリアン文庫フェア2021 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/_ex/Fair2021/ ・2021.08.01:ノコギリアン・ガッカイを設立(カイチョウ就任) https://36way.net/nag/ 以後毎年、展示発表会を開催する。 ・ノコギリアン・ガッカイ 2021 https://36way.net/nag/nag2021.htm ・ノコギリアン・ガッカイ 2022 https://36way.net/nag/nag2022.htm ・ノコギリアン・ガッカイ 2023 https://36way.net/nag/nag2023.htm 2006年に、自身の中に「のこぎり屋根」の「扉」が開かれた「今枝」氏。 2007年には、「のこぎり屋根の“地”・一宮市(出身地)」と縁起する。 2016年、一宮市にて「地歴学講座」を立ち上げる。 2016年11月3日、第一回「のこ座」に参加。 2017年11月3日、第十四回「のこ座」『ノコギリヤネ・ウツホモノガタリ』を主催。→「自称:ノコギリアン」と成る。 『自身の行き先が変わる』。 そこには不意に遭遇する「縁起」があり、これを受容することによって「主体性」が生まれる。 「縁起」(サイン)は日常の「からっぽ」に潜んでおり、これを見逃すことなく、しっかり受け留めるためには、自身が開いている必要がある。 魅せられるもの。それはすでに自身の裡に内包されている。「縁起」はそれとシンクロ(対話)する。 ノコやんの行き先は、都市計画家の道からそれとは異なった道へと導かれたのかもしれない。それは、自身が自身と重なるための「行き先」。 添付画像【1389_2023-12-15_20-02-24.JPG : 155.7KB】

248 hits

引用なし
パスワード

by  aoki@dwks    2023/12/13(水) 12:29:18

Re:https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1387;id=ad138 > ・アート鑑賞を軸にした対話から育むもの 「ノコギリヤネ100年マップ」は、ノコギリアン文庫フェア2021(2021年5月23日-7月25日)にて発表された作品です。 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/_ex/Fair2021/ この会期中に、「Symposium“ノコギリヤネのある風景”から見えてきたこと」(2021年6月27日)が開催されました。 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/_ex/Fair2021/symposium-2021_1.htm この展開記録は以下に収録されています。 https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=ntr;tree=1111;id=ad138 そして、ノコやんは以下の「開催後記」を残しています。 ● 6・27 シンポジウム「ノコギリヤネのある風景から見えてきたこと」開催後記(2021.7.7) https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/_ex/Fair2021/lib/20210707-kouki.pdf > そもそもシンポジウムで伝えたかったことは何か。それは、ノコギリヤネを個人の内面を反映した「風景」としてとらえること、その先に「コウバのあるまち」がイメージできそうなこと、それを説明する手段として「ノコギリヤネ 100 年マップ」を作成したことでした。「コウバ」とは、「公場」であり、公は「ム(私)を八(開)く」と書けます。そして、私自身が「のこぎり二」に出会い、行き先が変わってしまうほどのエネルギーを得る“萃点(すいてん)”を実感したように、それは市内に残るノコギリヤネが持っている可能性であり、その中からいくつかのノコギリヤネが「コウバ」として開かれ、「まち」が元気になることを期待するものです。 漠然と、ですが。ノコやんの信条(心情)が「ノコギリヤネ 100 年マップ」という作品に込められています。会期中、この作品を前に、おもしろい鑑賞シーンがありました。 ・[1154] 20210617:本日の観覧者(談話)- 2021/06/17(木) - https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1154;id=ad138 > 「鏡のように見えます」 > え?カガミ...ですか?どこがカガミなんでしょう? > .... > (※添付画像参照) この鑑賞者もまた、展示作品との対峙の中で「特異点」を見つけ出してしまったのではないでしょうか。立ち会いの中で、とても素直な感想が心に響いたことを覚えています。そしてその不思議さを興奮の中で一緒に楽しんでいました。なるほどな、と。 作品「ノコギリヤネ 100 年マップ」の見せ方として、「時間」と「空間」という概念を如何に受け留めてもらえるか?という課題と狙いがありました。そのために作られた「覗き穴」(鑑賞点)。それもまた「からっぽ」だった、ということでしょうか。 現実でありながら現実を超えた不思議なものを想像してしまう。それは“その場”に臨場してこそ得られる感覚。それが、アートのチカラ、作品の力。ノコやんは「可能性への期待」を手探りしていたが、自身の「番外編」(http://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1379;id=ad138)を追っていく中で、「アート(表現)の可能性」を具体的に見い出していく。「ノコギリヤネ 100 年マップ」がアート作品であると同時に、ライフワークにもなっている「Artbook」の制作もまた表現物である。 https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/nokoyane_artbook.htm これらとの「対話の機会」を日常的に「置く」ことが、「ノコギリアン」の活動スタイルなのだろう。「ノコギリアン」の「扉」は、いつでも開いています。 添付画像【1388_2023-12-13-11.JPG : 186.4KB】

534 hits

引用なし
パスワード

by  aoki@dwks    2023/12/13(水) 09:34:15

Re:https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1386;id=ad138 > 「からっぽ」の中での「からっぽ」から繰り広げられたアート。 8.5 真夏の夜の“キョウエン”(番外編) https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/20230823_noko-fukei-15_bangai.pdf 2023.8.23 1. “からっぽ”の中の“からっぽ” > この展示空間の大きさは、100u程であるが、大きな“からっぽ”である。創造力の原泉である一方、ここで展示をする者は、この空間に対峙する覚悟が要求される。さて、今夜のアーティストは、ここにどのような「場」を創るのだろう。 > 上から見ていて気づいたことがある。移動の軌跡だ。それは、ほぼ円弧を描いていた。中央には踏み込まない。まるで、真ん中に“からっぽ”を造り、それと対話するかのように。お前たちの視線は、一挙手一投足を追っかける。手で指し示す先を見る。顔を上げれば、その先を追う。そうして、時間を掛けながら、お前たちは、この“からっぽ”の器そのものを隅から隅までを眺めることになった。モノローグ(独演)のように見えるその動きは、のこぎり二との共演から生まれたものに違いない。 > アーティストは、見えないものを見せてくれる。マレビトも同じだ。身近にありながら見ていなかったのこぎり二の“からっぽ”をあらためて気づかせてくれたという訳か。 この紙面に添えられた“舞”の写真(図)。ノコやんの力作(ブリコラージュ)です。傑作です。時間と空間を切り貼りして「からっぽ」を描いている。右奥の白い漆喰の壁には、南方熊楠の萃点の図が象徴的に嵌めこまれている。 「からっぽ」に魅せられ(見)た者だけに描ける“図”なのかもしれない(見えないもの“エネルギー”を見せてくれる)。それが個々の行き先を変えてしまう。ノコやんが自身の裡なる“図”を具現化したように。そこには自身との「対話」があったはず。 互いの“自身との「対話」”同士が絡み合うのが「萃点」という“場”なのかもしれない。時間と空間が凝縮された“場”。それが現実に起こり得ているという“縁起”。わたしたちはそんな日常の中で暮らしている。 > それは、単なる調和、融合ではなく、自立した主体が輻輳するポリフォニーである。 > パフォーマンス終了後のアーティストを交えた“饗宴”。地産のスイカをいただいた。アートの地産地消。そんなフレーズが浮かんだ。いや、地産地生だろうか。独自の地域のリサーチから始まるアートが地域を再生する。 ・アート鑑賞を軸にした対話から育むもの ※ノコやんの「ブリコラージュ」という手法。 ノコやんの手元には膨大な写真資料(図)が保管されているのだろう。写真は時間と空間を切り取った絵(図)でもある。それらを任意に再構築して見えてくるものが「ブリコラージュ」。思考もまたしかり。 私たちの経験や記憶、想像や創造もまた、自身の中で「ブリコラージュ」された“今”があるのかもしれない。 添付画像【1387_2023-12-13.JPG : 270.1KB】

[添付]:1387_2023-12-13.JPG(270.1KB)
517 hits

引用なし
パスワード

by  aoki@dwks    2023/12/12(火) 12:28:28

Re:https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1385;id=ad138 > そこで発するあなたのことば(表現)を点検してみてください。 「のこぎり二」で開かれた二つの祝祭(番外編) https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/20220921_noko_bangai.pdf 2022.9.21 この章は、「のこぎりニ」という「ノコギリヤネ」の「からっぽ」の中で展開された二人のアート・パフォーマンスの記録です。 ノコやんはマスミダカラスに代弁させるように記しています。 ---全文転記--- ●0903「のこぎり二」のオニから聞いた話 @ サウンドインスタレーション:北條知子 オレは「のこぎり二」に棲むオニである。オレに見えるものが人間には見えないことがあるようだ。その日、「のこぎり二」で起きたこと、オレが見たことを教えてやろう。 そのアーティストが持ち込んだモノは、釣鐘のような形状をしており、言葉が書かれた短冊で網目状に構成されていた。短冊に書かれた言葉に「いのち」が宿ったのだろうか。それは、制作者の意図を超えて、進化していったのかもしれない。この「のこぎり二」の中で。 釣鐘の中から縄文琴の音が響く。この地域がまだ海であった時代を思い起こさせる。古代から人間は織物を紡いできた。その多くは女性の手によるものだった。ある時は、織姫ともてはやされた。オレはずっと見てきた。言葉と現実の間に存在するものを。 「ウツホ(空洞)」の中で、琴の音が風を起こし、釣鐘を解きほぐしてゆく。そして、言葉が宙にさまよい始めた。暑さの中で汗が滲み出し、言葉が身体にまとわりつく。やがて言葉は体内に浸透し、血液とともに身体全体を巡り始める。そして、ウチから湧き上がるものがある。 「ガチャマンの呪縛」という言葉が聞こえた。いまだに、一時の繁栄の中に多くのものが仕舞い込まれている。生きていく上で大切な何かを。そろそろ、土地も人もその呪縛から解放される頃だろう。オレが見たのはその可能性だ。ウチから音を発するということによって、ウチから開いていくということ。この「ウツホ/からっぽ」から発する音によって。 ●0903「のこぎり二」のオニから聞いた話 A サウンドパフォーマンス:恩田晃 「のこぎり二」に一人の祭司が召喚された。西洋のベルを携えて。それは、「広場」から始まった。広場では、多くの出会い、別れがあり、旅立ちがある。彼はソトに出た。一行が続く。ソトは闇だ。オレは閃光と雷鳴で迎えた。やがて周りが見えてくる。ウチでは見えないもの、聞いたことがないものと出会う。そして時が過ぎ、ウチに帰る。今度は工房エリアを巡行する。 小さなコミュニティの中を歩いていく。ベルの音に大地は目覚め、初めて訪れた者も、身体から大地の記憶を受け取る。やがて、例の釣鐘の前で立ち止まる。その前に小さなベルが並べられていく。その数は奇しくも 13。そこで、コミュニティが祝福される。 そして、おもむろに二つのベルとともに、彼は「境界」を超えて行った。そこは、大きな力を鼓舞する祝祭の場。しかし、彼はひるむことはない。こちらとそちらに違いはない。そうだ、ここは「のこぎり二」だ。だが、彼に続く者はいない。そこに「境界」を見てしまったのかもしれない。しかし、境界に踏み込むことで、開くことができるのかもしれない。例えば、呪縛を解くために。 時間が流れ、再び、広場に戻ってきた。「ウツホ/からっぽ」の伽藍に響き渡るベルの音に、記憶が再び呼び覚まされる。祝祭は終わり、また日常が始まるのだ。「のこぎり二」の新たな日常が。これが、オレの見たことだ。さて、オマエには、何が見えた? ---- そして、 > 機織り唄の釣鐘と西洋のベル。それは「ウツホ」から音を発するもの。ソトからの力ではなく、ウチから生まれる日常の力。新たな開き方の可能性を見たように思う。 と結んでいる。 「ソトからの力ではなく、ウチから生まれる日常の力」。 「からっぽ」の中での「からっぽ」から繰り広げられたアート。 ・アートのチカラ ・表現することの力 ノコやんもまた、表現者のひとりである。 表現者が表現者に呼応する「時」、 受容は“自由”だ。 表現の“場”が日常(まち)の中にあること。 そこにウチから生まれる可能性がある。

500 hits

引用なし
パスワード

by  aoki@dwks    2023/12/11(月) 12:59:38

Re:https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1384;id=ad138 > 「ノコのある風景」の中でも重要なキーワードになっています。 ・オワリの大きな“からっぽ”・一宮 (断章“ノコギリヤネのある風景 ”その5) https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/20200923_noko-fukei-5.pdf 2020.9.22 1.“からっぽ”になった一宮 2.“からっぽ”から生まれた「ガチャ万」 3.“からっぽ”、ウツホ、ゼロ・・・それは始まりのチカラ 4.「一宮という虚構」あるいは「オワリのからっぽ物語」 ※この章から「マスミダカラス」(対話)が登場しています。 以下、マスミダカラスの台詞から抜粋... ・神社なんて、“からっぽ”の器さ。何もないところに、人々の思いが籠り、それが大きな力を溜め込む。...“からっぽ”は使い方次第だ。そこから生まれる力は大きい。 ・それは、何もないのではなく、何ものにもなる始まりのカタチだ。だから、モノ、人が集まる。 そして... 『 この“大きなからっぽ”がガチャ万を生む契機となり、そのガチャ万に呪縛された象徴であるノコギリヤネは無数の“小さなからっぽ”として、この地域を変えていくかもしれないという期待 』 と結んでいる。 「からっぽ」は、マスミダカラスの“俯瞰の眼”によって映し出された。人間の視点からでは見えないものなのかもしれない。地べたにへばりつく二次元な視界からは見る(感知する)ことはできず、「高さ」を持った三次元な視界を得てはじめて見えてくるもの。その「高さ」という次元は、想像力で補えるものなのかもしれない。ノコやんが「マスミダカラス」を登場させたように。 「からっぽ」は、すべての人に見える(感知できる)ものではない。 「からっぽ」が見えた(感知した)人でも、その見え方は様々である。 「からっぽ」には、自身(の裡)が投影される。 「からっぽ」は、自身が表現者となる「入口」でもある。 そこで発するあなたのことば(表現)を点検してみてください。

488 hits

引用なし
パスワード

by  aoki@dwks    2023/12/10(日) 23:52:55

Re:https://div.36way.net/bbs/brd.cgi?cmd=one;no=1381;id=ad138 > 知覚できないものを > 知覚できないものとして > 受け留める術はあるのか? ノコやんは「ノコのある風景」の中でも「からっぽ」「ウツホ」ということばを多用しています。このふたつのことばは同義と受け留めていいでしょう。 2017年11月3日 ここで、ノコやんは「ウツホモノガタリ」という座談会(のこ座)を主催しています。 第十四回「のこ座」 『ウツホモノガタリ・ノコギリヤネ  https://div.36way.net/ad138/nitsubonome/nokogirian/lib/nokoza14_report.pdf 「ノコのある風景」がはじまったのが2019年12月30日ですから、ノコやんの「ウツホ」「からっぽ」は、それ以前から温められていたイメージなのでしょう。 「ノコのある風景」の中でも重要なキーワードになっています。 さて、ノコやんの示す「からっぽ」「ウツホ」は、いったいどんなものなのでしょうか?南方熊楠の「萃点」のイメージが根底にあるようですね。 あなたには感知できますか? ノコギリヤネの「からっぽ」が。

467 hits

引用なし
パスワード

2 / 143 ページ   ←次へ | 前へ→
ページ:  記事番号: 
29,854
C-BOARD Moyuku v1.03b3
バトンプロジェクト:二坪の眼 for PDA