バトンプロジェクト:二坪の眼-掲示板

-思考実験工房-
主催:DWKS (バトンすべきものは何?)

▼Topics

●ノコギリアン・ガッカイ 2023
『ノコギリヤネ・コウゲンガク』
https://36way.net/nag/nag2023.htm
会期:2023.12.21 - 2024.2.29
会場:ノコギリアン・コウバ
主催:ノコギリアン・コウバ、二坪の眼
展示:Koubas_Only(Natty & Colin)
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・ノコギリアン文庫
断章“ノコギリヤネのある風景”

【考察】:ノコギリアン文庫『断章“ノコギリヤネのある風景”』


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[454] ■はじめての野菜作り  aoki@dwks  - 2017/12/30(土) 15:12:28 -

■はじめての野菜作り 【体験レポート 野菜栽培2017】 2017年6月、唐突に野菜栽培をしてみたくなった。これまでに野菜栽培の経験はない。それでも、野菜栽培をしている自分の姿が自分の中にあった。これは衝動としか言いようのないものだ。そんな衝動を素直に受け入れた。 さて、どこで野菜を育てたものか?と場所探しから始まることになる。自宅には畑として利用できるような土のスペースが無い。そこで、事務所兼作業場として二坪のスペースを間借りしているのこぎり屋根工場のオーナーに相談してみた。すると、快く工場敷地内で畑として使えそうなエリアを提示してくれた。ここなら、自宅からも遠くなく、通いの範囲で立ち寄ることができる。野菜栽培の取り組みには都合がいい。ありがたいことだ。 オーナーから提示された土地は、一時は花壇として活用していたスペースで今は特別な手入れはしていない、とのことだった。その場所は駐車場の一角にあり、もともとは砂利土の敷地に土を入れて花壇として使っていたらしい。今は雑草が覆い茂っている。およそ横幅5メートル、奥行き1メートルの区画となる。 6月中旬、畑の開墾から始めることにした。まずは雑草引きからはじまる。雑草をすっかり引き抜いてしまうと、土の感触は硬い。この現状で、このまま種を蒔くことには抵抗感を覚えた。「耕す」という言葉が当たり前のように浮かんできた。土を掘り起こして土の深さを確かめておくことも必要かも、と。 野菜栽培の経験はなくても、それはこれまでの人生の中で擬似的に体験してきている。日常のテレビ映像や写真、映画の中などに野菜栽培の光景を見てきている。そこから「耕す」とは何をすればいいのかを思い起こすことができた。まずは道具。スコップと鍬・鋤が必要だった。幸いそれらの農具は、のこぎり屋根工場の備品としてあるものを使わせてもらうことができた。 そして、約5平米の土の開墾がはじまった。 若い頃は陸上部に所属していた。荒れた赤土のグランドをトンボがけして整備することも部活動の一環としてあった。そのトンボが鍬や鋤にとって変わっただけのこと。と思いきや、自分も歳をとったのだろう。5平米の土は意外と手強い。トンボがけしたグランドは100メートル。5平米の土を掘り起こす作業がこれほどまでの重労働になるとは予想外だった。片手間に一人で管理する畑としては、これくらいが丁度良いか、むしろ広すぎたのかもしれない。 身体を休ませながら、一日近くかかって土を耕すことができた。スコップで土を掘り起こし、鍬で均しても砂利石の混ざりを取り除くことはできない。ひとつひとつ、手で選別するには手間がかかる。100円ショップで入手したバーベキュー用の金網を木枠に嵌め込んで篩を作った。大きな砂利石は篩にかけて取り除いていった。砂利石の選別と土のほぐし作業が進んだ。ひとつひとつの道具が活躍するんだな、と実感する。道具はつくるもの、必要に応じて工夫されてきた歴史があるんじゃないだろうか。そんな叡智の恩恵に授かっていることは確かなことだと思う。 土の深さは15センチ程度。種蒔き用の畝を作るにはもう少し土が欲しい、と思った。それでも、耕した土の上に足を踏み入れると、実に柔らかい。そのフワフワ感がすこぶる気持ちいい。なんだ、この感触は。足が土に吸い込まれていく?ん?違うな。土が足を、身体を、受け止めてくれるような感触。それは腹の底から全身に渡って感じられるようなもの。あんなに硬かった土がこんなに柔らかくなる。不思議な興奮に包まれた。 野菜づくりは土づくりから、と聞く。土を追加するにしてもどんな土を加えたらいいものか、見当がつかない。「土づくり」をキーワードにネットを検索してみた。便利な時代になったものだ。後日、培養土と消石灰と発酵鶏糞を用意する。 5平米の土づくり、再び。 ホームセンターで入手した培養土、消石灰、発酵鶏糞を適量とおぼしき量を加えて土に混ぜ込んでいった。加えた消石灰が土の酸性度を調整するものらしく、種蒔きまで2週間ほど土を寝かして置く必要があるらしい。土の色が変わった。この2週間の時間で土の中では何が起きているのだろう?土に興味を持つきっかけとなる。土の最小単位ってなんだろう?そんな素朴な疑問が頭に浮かんだ。 「木製のプランターも空いているから使っていいよ。」とオーナーが声をかけてくれた。昔ながらの木製のリンゴ箱に土を入れてプランターとして使われていた木箱が数個並んでいる。何かの植物が植えられていた痕跡はあるものの、現在は使っていないらしい。土の深さは30センチくらいは確保できそうだ。この深さを利用して根菜の栽培ができるかもしれない、と思った。 木箱の土も篩にかけて大きな砂利石を取り除いていった。すると土の中から蠢く幼虫が出てきた。中には脱皮して成虫の形で掘り起こされたものも出てきた。どうやらコガネムシのようだ。土の中は宇宙だな、と思った。生命の育みがある。考えてみれば野菜も命だ。土は揺り篭のようなものかもしれない。 木箱の土も篩にかけて、砂利石を取り除きながらほぐしていくと、土の全体量が減った。この分量では木箱2個分ほどしか確保できない。他に使えそうな木箱が2個あるので、こちらにはホームセンターで入手した培養土を埋めることにした。選別された砂利石混じりの土は、ひとつの木箱にまとめて放置することにした。 土を寝かせて2週間、何種類かの種を用意した。 ・トマト ・キュウリ ・ナス ・ピーマン ・枝豆(大豆) ・ほうれん草 ・万能小ネギ ・葉大根 この8種類を駐車場の畑に蒔いた。トマトだけは苗植えとなる。 ・大根 ・リトルキャロット ・スイカ これらは、木箱の土に。そして、5月に種植えされた綿も含めて観察していくことになる。 6月下旬の種蒔きは、夏野菜にとってはやや遅い時期だったのかもしれない。5平米の土に8種類の種蒔きというのも異例な方式なのかもしれない。野菜の栽培は、収穫を味わうためのものではなく、野菜栽培の体験と観察にあった。 7月の陽射しは強く、雨も少ない。水を撒いても土の表面はすぐに乾いてしまう。10リットルの如雨露で3杯の水撒き。それが数日間、毎日続いた。 そんな中、大雨が降る一日があった。畝の谷間にしっかりと水たまりができた。畝が流されずに済んだことを幸いとすべきか。正直、この洪水状態をどのように受け止めたらいいものか、ただ見守るしかなかった。水撒き加減の難しさを知る。陽に照らされて土の表面は乾くものの、水はけの悪さがいずれ根腐れの原因となるかもしれない。土の表情と土の中の水分状態は別物なのかもしれない。しかし、それも想像の域を出ないことだ。 蒔いた種はちゃんと発芽するのだろうか。見えないところで何が起きているのか、それを知るすべもなく、気持ちだけが揺れ動く。経験豊かな人たちは土の表情からそれらを読み解く術を身につけているのかもしれない。種にとって適した水分を含む土。そしてその環境を維持すること。それはまさしく天候との戦いなのだろう。 洪水のあと、畑のあちこちから見知らぬ若葉が芽吹いてきた。雑草のようにも見えるが、それらの若葉には自己主張があった。一日ごとにその数が増えていく。なんだろう?と思っていたら「アサガオ」だと教えてもらった。 こしらえた畝はふた流れ。壁際の奥には、トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、枝豆と、背丈の伸びる野菜を横並びに。手前の畝には、ほうれん草、万能小ネギ、葉大根と、葉物野菜を配置した。これらに混じってアサガオが成長してもらっても困るわけだ。せっかくなので、アサガオを移植してみることにした。畝とは別に耕しておいた土のエリアがあるので、順次、芽吹いたアサガオの若葉を移植していった。アサガオの群生地をイメージして。 それにしても、アサガオが自生しているとは予期せぬこと。土の中でアサガオの種が眠っていたんだな。これが土の歴史というものかもしれない。そして種は、発芽の時期を知っている。 7月上旬、いくつかの野菜が芽吹いてきた。キュウリと葉大根が早かった。続いて、枝豆。ナスとピーマンはやや遅れて芽吹いてくる。木箱では大根とリトルキャロットが若葉を出してきた。 ほうれん草は、ずっと遅れて若葉を出すものの、育つことなく枯れてしまった。今思うと、種蒔きの時期や芽出しの準備が不足していたのかもしれない。いずれにしろ、ひとつひとつの種には個性があり、同じ環境でも異なった育ちかたをすることが見てとれる。 たとえばキュウリ。キュウリは3点スポットで種蒔きしたが、芽吹いたのは2点だけだった。枝豆やピーマンもすべての種が発芽したわけではない。それでもナスはすべての株が成長した。一番豊作な野菜となった。それぞれに土との相性があるのかもしれないし、発芽率とやらの関係があるのかもしれない。 不思議なのは万能小ネギだった。万能小ネギの種は筋蒔きして発芽を待った。しかし、なかなか思うような発芽光景を見ることができなかった。やっと芽吹いてきたかと思ったら、何やら様相が違う。一見、ネギのような棒状の緑を伸ばすものの、その形状は筒状にあらず。どう見てもネギではない。そんな形状の草?が万能小ネギの種を蒔いたエリアに群生してきた。筋蒔きしたにもかかわらず、その筋をも無視したかのように畝一面に群がっている。なんとしたものかとしばらく放置しておいたが、いよいよ雑草の様相を呈してきたので、半ばあきらめの気持ちの中で、それらの草を抜いていった。すると、抜いた草に混じって僅かにネギと思しき株が手に取れた。なんだこれは?万能小ネギは生きていた。群生のすべての草を抜き去ってみると、数株の万能小ネギを救済することができた。なぜ?このような現象が起きたのか、未だに謎のひとつとなっている。 2つの畝には雑草も育ってきている。その生命力には凄まじいものを感じる。アサガオの種と同じように、雑草の種も土の中で眠り、芽吹いてくるのだろう。何種類の雑草があるのだろう?野菜にも個々に性格があるように、きっと雑草にもそれぞれに特性があるのだろう。そんな雑草は隣人を構わずに緑を伸ばしてくる。だから雑草と呼ばれるのかもしれない。雑草はその土の歴史そのもののような気もする。 ただ、雑草は野菜の育ちを妨げるものとして排除するのが習わしとなっている。土の養分が雑草に奪われてしまう、という考え方だろうか。雑草が覆い茂ると野菜の観察もしづらくなる。抜かれる運命の雑草は、抜かれても抜かれても、それでも生えてくる。そんな雑草が土の歴史を作っていっているのかもしれない。 日照りが続く中、水撒きの間隔が空いた。キュウリの葉は張りを失うのがてきめんのようだ。それだけキュウリは水分を必要とするのだろう。アサガオの葉も同じように水分の影響が表情に現れやすい。水撒きの時間確保。そんな意識が日常の中に芽生えてきた。 土の乾きを少しでも遅らせないか、と可能な範囲で遮光ネットを張ってみた。いくらかの日陰を確保することができた。光と水と土。これらのバランスがとても重要なのだな、と実感する。 7月中旬、キュウリの成長を隣に黙り続けていたナス。ようやく芽を出してきた。少しほっとする。枝豆の丈は1メートルほどに伸びていた。 木箱では、大根とリトルキャロットが順調に葉を広げていっている。そんな並びの木箱には試験的に構成した2つの木箱がある。 ひとつは、スイカの種とじゃが芋を埋めておいた。スイカの種は食べた後に残った種。じゃが芋は、スーパーで入手したもの。いずれも発芽実験のような試みだった。そして、この時期にスイカの若葉が出てきた。これには驚いた。食べたスイカの種がちゃんと芽を出すんだ、と。じゃが芋もまた、いずれ茎を伸ばすことになる。 もうひとつの実験は、砂利土の寄せ集め状態のまま放置することにした木箱。いずれ堆肥づくりにでも利用できるかな、という無計画なまま、敢えて手を加えないことにしておいた。そうしたら、その土からウコンの葉が伸びてきた。これも土の歴史なのだろう、過去にウコンを栽培していた経緯があると聞く。ウコンもまた生命力の強い植物なのだろう。この木箱には雑草も覆い繁り、まるでジャングル状態になっていった。 ところが、ほとんどの土をホームセンターで入手した培養土で埋めた木箱には、雑草が生えてこない。それが園芸用に作られた培養土の特性なのかもしれない。なんとなく不気味さを覚えてしまう光景でもあった。雑草が生えない土。 そして、この時期に厄介ごとに出くわすことになる。虫対策だ。 特に大根とスイカの葉が集中的に食われていった。殺虫剤の必要性を感じる。大根の葉などは、まだ若いうちから食い尽くされていくので、葉の成長そのものが危ぶまれた。 いわゆる農薬は使いたくなかった。かといって、虫を一匹づつ退治していくわけにもいかない。悩ましい問題だ。虫とて生きるために大根の葉を必要としているのだろう。しかし、このまま放置していては大根が育たなくなってしまう。 化学殺虫成分を使わず天然成分を使用した有機農産物栽培(有機JAS)としても認可されている殺虫剤があると聞きいた。ホームセンターでも入手できるようだ。数日間、使ってみた。いくらかの効果は感じられるものの、速効性には不向きな性格にあって、虫の飛来まで防げるわけにはいかなかった。この調子でいくと、水撒きに加えて雑草引き、殺虫剤の散布と、どんどん野菜栽培の管理に時間がとられていく。とても片手間な野菜栽培ではなくなってきてしまう。野菜栽培とは、それだけデリケートで手間暇のかかる仕事なのだな、と実感する。 他に何かいい方法はないものか、と調べていくとマリーゴールドの存在を知った。植物の虫除け対策として代表格なコンパニオンプランツ、という紹介があった。さっそく、苗を入手して大根の近くに植えてみた。効果はあったようだ。マリーゴールドを植えてからは、殺虫剤を散布することもなく、大根の葉は緑を広げていった。 マリーゴールドの効果が顕著だったのは、葉大根のエリア。葉大根も3点スポットで育っている中、マリーゴールドと隣合わせで育っている株は葉を大きく広げているものの、横並びに一番遠い株の葉は虫に食われた痕が絶たない。 この時期に、大根も葉大根も間引きした。トマトの枝ぶりも勢いが良いので、剪定してみる。キュウリも根っこの部分が窮屈そうだったので間引きした。 この間引きという手入れが重要だ。それは、リトルキャロットのケースで実感することになる。リトルキャロットは間引きのタイミングを逃したのだ。結果、互いに窮屈に育って成長するものと成長しきらないものとのバラツキができてくる。しかし、その成長の度合いは土の中に隠れている。いつ、どの株を間引きすれば良いものか?その判断が難しい。リトルキャロットの種はスポット蒔きしがた、筋蒔きしたほうが良かったのかもしれない。 7月下旬、綿の花が咲く。 以前、知多の民俗資料館で入手した綿の種を工場オーナーに渡しておいた。その種を5月に蒔いてくれたらしい。のこぎり屋根工場の入口付近にある木箱のプランターで咲いていた。初めて見る綿の花。黄色い5枚の花びら。雄しべの周りだけが赤紫色している。美しい、と思った。野菜ではないけれど、綿の繊維が採れることに期待が高まった。 キュウリはつるをどんどん伸ばしていく。つるとつるが絡み合い、枝葉の広がりを支えていく。まるでつるが意志を持っているかのように見える。そのためにも、縦の支柱だけでなく横方向にも止まり木が必要だな、と思った。太目の針金で支柱と支柱を水平に結び、支柱の補強も兼ねて、横方向に2段の梯子を張った。 追肥として発酵鶏糞を畝に沿って混ぜていった。 ようやく、ピーマンが一株だけ若葉を出してきた。やはり、蒔いた種のすべてが発芽するとは限らないようだ。隣では、枝豆の花が咲く。小さな白い花だった。その数日後には枝豆の袋ができてきた。 木箱ではスイカの花が咲く。キュウリの花によく似ている。大根は青首が盛り上がってくる。 8月上旬、ナスの葉がナス色を帯びてくる。葉っぱが異様に大きい。長さを測ってみると、35センチ以上のものもあった。 この頃になると、キュウリもトマトもたくさん花を咲かせるようになった。トマトは青く実ってきたものもある。枝豆の袋も群を成すようになってきた。初めて見る枝豆の成り方。ひとつひとつの房はバナナの形状にも似ているが、なんとも不思議な光景を見ているような気持ちになった。 8月中旬、キュウリも形を成してきた。畑が賑やかになってきた。目を見張ったのは大根の葉っぱ。株の中心から放射状に葉っぱを広げている。真上から見ると、まるで宇宙の広がりを見る思いだ。一時は虫に食われてどうなることかと心配していた大根だったが、こんなに魅力的に葉っぱを広げるとは。そこには在るべきメッセージさえ感じ取れる。大根に限らず、それぞれの野菜がそれぞれにメッセージを持っているのだろう。命のメッセージ。そのすべてを聞くことができるのだろうか。 たとえばスイカのあかちゃん。 このスイカの種は、初夏にたまたまおやつとして工場で食べたスイカの種だった。野菜栽培の構想が頭にあった時期でもあり、実験的に興味本位で木箱に埋めた。それが芽を出し花を咲かせ実になっている。これには正直、感動の驚きを覚えた。「種を採る」。このことの重要性に気付かされた出来事でもある。 このスイカのあかちゃんは、どこまで大きく育つのだろう、と期待が膨らんだ。その矢先に大雨が降った。次の日に見てみると、スイカの下半分が黒く朽ちていた。どうやら水没して腐ってしまったようだ。次なる対策としてスイカの木箱には藁を敷いてみた。その後、2つのスイカのあかちゃんが実った。しかし、2つとも育つことなく朽ちていった。原因は不明。手入れの不十分さもあるのだろうが、食用のスイカの種では実りきらないのかもしれない。とそんなことも頭をよぎった。 8月下旬、野菜栽培の手入れと観察が失速した。家庭の事情で工場の畑まで通う機会が大きく制限されることになる。なんというタイミングの悪さか。時間は待ってくれない。野菜たちは人の手を待っている。一日一日の表情を見逃すことになる。詰めが甘くなるなと嘆いてみても、これもまた現実と受け止めるしかない。 種を採ることに意欲が芽生えた矢先だった。大根の花が見てみたかった。そして、種を採ってみたかった。しかしそれは、大根の収穫を諦めることを意味する。大根を食用に収穫してしまえば、花を咲かせ種を採ることはできない。大根は2本しかない。この先、じっくり付き合う時間も怪しくなってきた。収穫を優先することにした。 9月上旬、万能小ネギの怪を振り返ってみる。 1メートルほどの畝に種を長蒔きした。 この1メートルの区画に限って、万能小ネギの形状によく似た雑草が覆い茂ってきた。 最初の芽吹きには、ネギの発芽と信じて喜んでいたものの、その成長を追うごとに、ネギへの疑いが増してきた。これはネギではない、と。 種を蒔いた翌日には大雨が降った。畝の中で種の移動も多少はあるのかもしれない。などと未熟で勝手な憶測を膨らますも、謎は謎のまま眼前としてある。意を決して覆い茂った雑草を抜いていくと、数株の万能小ネギを救うことができた。 これは今でもどのように受け止めたら良いのか、「万能小ネギの怪」としか言いようのない現象だ。経験値を持たない者にとっては、憶測と現実の狭間で消化不良を起こすことになる。 ほうれん草は、しっかり枯れた。 リトルキャロットを間引きしてみると、根はまだ細いものの、いくらか色づいてきている。この間引きは、成長過程の観察として行っていった。土の中の様子は抜いてみないとわからない。今思えば、この段階で間引きを丁寧に行っておけば、人参の出来具合や収穫量ももう少しサマになっていたかもしれない。根菜の難しさは、見えない土の中を見極める力が必要になる。これも経験値だろうか。 トマトが赤く実ってきた。その艶が眩しい。 9月中旬、ナスの花が咲く。ナス色の5枚の花びらが星形に開いている。雄しべは黄色い。初めて見るナスの花。その紫色には不思議な美しさがあった。紫色なんだね、ナスの花って。 枝豆は成熟が進んで袋が茶色くなり乾燥してきているものがある。同じ房の中で、緑色の瑞々しい袋と茶色の乾燥した袋が混在している。緑色は枝豆で、茶色が大豆、ということになる。人間は、その成熟の時期を違えて収穫し、違う味わいを楽しむことを覚えていったのだろうか。枝豆として収穫すれば、種となる大豆は残せない。大豆は枝豆の種であり、保存食であり、発酵食品でもある。なんとなく、大豆の奥深さを感じたりする。そこには人間と大豆の長い歴史の積み重ねがあるのだろう。 トマトを2つ収穫した。いずれも熟し過ぎている。というよりも、傷口から虫に食われている状況にあった。これはどう見ても食用にはならない。種を採る為の収穫である。 種を採るには追熟の期間が必要と聞く。そのまま一週間ほど寝かせてみた。しっかり腐敗臭がする。そんな腐敗臭の中でトマトの種を採取した。種は意外と小さい。大きさもまばらで、どれが健康状態にあるものなのかも分らない。採取できた量はほんの僅か。二世代目の発芽を夢見て保管することにした。 綿の収穫。 茶色い綿がいくつかできてきたので、摘んでみた。綿の木は数本。 綿の種はふわふわの繊維で覆われている。これをコットンボールと呼ぶらしい。両手にいっぱいのコットンボールが採れた。 後日、これを持って糸紡ぎの体験施設を訪れた。綿繰り・弓打ち・よりこ作り・糸紡ぎ、と4つの工程を経て、綿糸をつくるところまでご指導いただいた。綿布は、この糸を経糸と緯糸にして織り込んでいって出来上がる。着物は、そこから裁断と縫製を経て仕上がる。自然の恵みを生活の中に活かす知恵と技術。綿もまた、人間の歴史と長く深い関係を持っている。植物から学ぶものは多い。つくづくそう思った。 9月下旬、収穫が続く。 枝豆の袋はほとんどが茶色となり、大豆として収穫した。煮豆やきな粉にもなるだろう。納豆だってできるはず。しかし、いろいろ試すには量が少ない。紙コップ一杯にも満たない収穫だ。これは来年の種蒔用として温存しておくことにする。 ナスが豊作だ。食べ頃の数本を収穫する傍らで小ぶりのナスが実っている。成長に合わせて順に収穫していくのがよいのだろう。 大根は2本とも収穫した。大きさこそ違うものの、大根らしい大根として収穫できた。意外と、土から盛り上がった青首の部分が多い。木箱の土でも大根は収穫できる。 10月上旬、リトルキャロットを収穫した。間引きに失敗したせいもあって出来の良し悪しにばらつきが目立つ。人参の様相にあるものの、いささか不恰好だ。根菜は窮屈な環境では伸び伸びと成長できないことがよく分かる。野菜栽培は人間の手入れが必要なのだと。 アサガオの種もいくらか集めてみた。もともと雑草のごとく芽を出してきたアサガオなので、このまま放置しておけば自然落下して来年もまた芽を出すことだろう。この種は記念のようなものになるかもしれないし、鉢植えとして育てることになるかもしれない。 2017年6月下旬から10月上旬までの野菜栽培への取り組み。 思い付きで片手間に始めた野菜栽培だが、手入れをしていく中で野菜たちへの思い入れは強くなっていった。それは野菜たちの表情があまりに豊かだったから。 野菜栽培の知識も経験もない。ほとんど手探りなトライアルだった。ネットから参考になる情報を拾い集め、見様見真似で土づくりからはじめてみた。 育てる野菜の種類は、興味本位でできるだけバリエーションを持たせ、無造作に選んだ。夏野菜を育てるにはやや遅い時期の種蒔きとなったかもしれない。これには土づくりに必要とする日数の誤算も含まれる。 主な手入れは、水撒き、日照り対策、雑草引き、害虫対策、間引き、剪定などなど、これらはみな野菜が成長する表情の中にその必要性を見て取り実行してきた。すべての手入れが適切だったかどうかは分らない。 多品種の野菜を一斉に種蒔きした。個性の違いは発芽時期の違いからも見て取れる。土との相性もあるのかもしれない。いづれにしろ植物にとっては、土と水と光が欠かすことのできない重要な要素であることを実感する。 たとえばアサガオ。 アサガオは文字通り、早朝に開花する。昼近くになるとすでに花をすぼめてしまっている。これもアサガオの光に対する習性なのだろう。そしてアサガオのつるは、基本的に東向きに伸びていく傾向が見て取れた。アサガオは多くの水を欲しがるようだ。日照り続きの中、水撒きを一日でも怠ると葉っぱの表情に張りがなくなり、項垂れているように見える。 たとえばキュウリ。 キュウリも水を欲しがる表情が見て取れる。枝葉の成長が早い。つるはその成長を助けるに実に機能的に役割している。あまりに早い成長の中で、主軸を確保するために剪定もした。その時だった。切り落とした枝葉は、その瞬間から生気を失っていく。まさしく「この手の中で」萎れていく、という有り様だった。これが水を絶たれたキュウリの姿か。としばしまじまじと眺める時間もあった。 たとえばリトルキャロット。 リトルキャロットは間引きに失敗した感があるが、葉っぱの成長は著しかった。長く伸びすぎではないかと思う観察の中、何度か試験的に間引きした時だった。まだ人参とは判別できない白い根の状態で抜かれたリトルキャロットは、抜かれた瞬間から葉っぱの張りを失っていった。植物は土と一体化して生きている。土と共に命を育んでいる。この時、土の重要性と役割を痛感した。同時に土への興味と関心を覚えた体験だった。 たとえば大根。 大根の葉っぱは美しい。これが今回の野菜栽培で一番印象深く刻まれた光景だった。放射状に葉っぱを広げるその姿は、宇宙の広がりを彷彿とさせるものがある。大根の葉っぱの全景を見たのはこれが初めてのこと。この葉っぱが光を受けて根の成長を促しているのだろう。大根が好きになった。以来、大根おろしを毎日のように食している。宇宙の根を採り入れよう、と。 野菜を育ててみると、その食材が身近に感じる。食卓でその食材を口にする時、その野菜が育っていく光景が浮かんでくる。それはその食材の味わいを確実に深くしていく。大根は木箱のプランターでも立派に育った。機会があれば家庭の片隅でも挑戦してみて欲しいと思う。たとえ1本の大根を育てるだけでもいいと思う。 土への興味と関心。 一番不思議だったのは、従来の畑にあった土には雑草が自生し、市販されている園芸用の土からは雑草が生えてこないこと。あたりまえと言えばあたりまえのことかもしれない。しかし、雑草の生えない土って、土って言えるのだろうか、と疑問を持ったりもした。土は長き歳月を経てつくられていく。それこそ世代を超えて受け継がれる土は、そこでのみつくられる個性豊かな土と言えるのではないだろうか。 土の中は見えない。それでも耕してみると、ミミズがいたり、アブラムシがいたり、あらためて地中での生命の育みを垣間見ることになる。そこには驚きがある。それは想像力へとつながる。 そういえば、田んぼには数多くの様々な生き物が居ると聞く。土は植物のためだけのものではない。そんな土の最小単位ってなんだろう?と素朴な疑問が浮かんできた。調べてみると、専門的な解説をすることはできないが、岩石が風化してできた鉱物の粒子が構成要素だと受け止めることができそうだ。その鉱物の種類たるや、まさしく地球を構成しているすべての元素を含むと考えて良いらしい。それに加えて水と空気が混ざりあって土と呼ばれるものができている。土の中には動物や植物の遺骸も含まれるらしい。微生物も含めたら、そこはもう立派な宇宙でしょう。野菜はそんな宇宙で育つものなのだ。 そして野菜の世代を繋ぐものが「種」。 野菜を育てるということは、食用の実を収穫するのが目的となる。しかし、食用の実をすっかり収穫してしまうと種が採れない。次年度の種蒔きが出来ないというパラドックスになる。 一般的に、家庭菜園を楽しむ場合は、種や苗の入手から始まることだろう。でも、その種は誰が作っているのだろう?野菜の歴史は品種改良の歴史でもあるようだ。そのための、種の収穫を目的とした事業もあるのだろう。自家菜園で種の収穫まで取り組むケースは稀なのだろうか。 仮に、家庭菜園で食用の実と種の両方を収穫しようとすると、株を分けて収穫時期を違える必要がある。ひとつは今年の食料として、ひとつは翌年の栽培のために。そう考えると枝豆と大豆はひとつの株で収穫時期を違えるだけで、食料と種の収穫ができる合理性を持っている。ただ、よくよく調べていくと、枝豆に適した品種と大豆に適した品種とに別れるらしい。野菜の品種改良には奥深いものがありそうだ。 日本は世界でも野菜の種類の豊富な国とされているらしい。元来、日本の原産とされている食用植物は、ユリネ、ワサビ、フキノトウ、ウド、フキ、カタクリ、ゼンマイなどとその品種は極めて少ないようだ。その傾向には山菜が多く見られるような気がする。栽培という人の手を加える手法によって、日本ではその品種の数がめざましく増えていったということか。四季があり地方にも寒暖差があることが、その土地に適した野菜栽培が行われてきたのだろう。そう考えると、その土地に適した栽培による種によってその土地での栽培が繰り返される野菜が本来の野菜の姿のように思える。そういった種のことを「固定種(在来種)」と呼ぶらしい。しかし、その固定種の種を入手するのが難しくなっている時代に来ているようだ。 今回の栽培で採種できたもの。 ・トマト ・大豆 ・アサガオ ・綿 添付画像【454_20171229-1.jpg : 131.3KB】

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